岩槻人形の歴史
「人形のまち」岩槻の歴史
室町時代、長禄元年(1457年)太田道灌公が関八州の北の砦として岩槻城を築いて以来、城下町としての岩槻の歴史が始まります。
徳川家康が江戸に幕府を開いて以後、岩槻は江戸近郊の城下町、日光御成街道の宿場町として賑わい、岩槻城は代々徳川氏の譜代大名が城主となり統治されました。
明治4年(1871年)岩槻藩は岩槻県となり、さらに浦和・忍・品川・小管の4県を合併して埼玉県となった際には、岩槻に初の県庁が置かれるほどに、岩槻が江戸近郊の産業・交通・文化の中心地として隆盛をきわめていました。
2005年にはさいたま市と合併し、さいたま市岩槻区が誕生しました。
徳川家康が江戸に幕府を開いて以後、岩槻は江戸近郊の城下町、日光御成街道の宿場町として賑わい、岩槻城は代々徳川氏の譜代大名が城主となり統治されました。
明治4年(1871年)岩槻藩は岩槻県となり、さらに浦和・忍・品川・小管の4県を合併して埼玉県となった際には、岩槻に初の県庁が置かれるほどに、岩槻が江戸近郊の産業・交通・文化の中心地として隆盛をきわめていました。
2005年にはさいたま市と合併し、さいたま市岩槻区が誕生しました。
岩槻区はさいたま市の東部に位置した、水と緑の自然に富んだエリアです。街中には、由緒ある史跡が多数点在し、観光のまちとしても注目されています。
古き良き武蔵野の面影が濃く残る郊外には、かつての岩槻城跡である岩槻城址公園があり、市民の憩いの場所として親しまれています。
岩槻人形の歴史
岩槻の人形づくりの歴史は、日光東照宮の造営と深い縁があります。
寛永年間(1634年~1647年)三代将軍徳川家光公は、日光東照宮の造営にあたって全国から優れた工匠を集めました。
寛永年間(1634年~1647年)三代将軍徳川家光公は、日光東照宮の造営にあたって全国から優れた工匠を集めました。
日光御成街道の江戸から最初の宿場町であった岩槻には、東照宮の造営や修築に携わった宮大工ら工匠たちの中にこの土地に住み着いた者も多く、付近に豊富にあった上質の桐を用いて人形づくりを始め、その技術を広めたといわれます。
また、人形頭の塗装に使用する胡粉の溶解、発色を良くするために重要な水にも恵まれていたことから、桐塑頭(とうそがしら)の技法は、藩の武士や農家の人々によりその後も受継がれ、幕末には岩槻藩の専売品に指定されるほど重要な産業となり、今日に受け継がれています。
日光東照宮で見ることのできる豪華絢爛な装飾品の数々は、岩槻人形と全く同じ技法で出来ていることは、大変興味深いことです。
岩槻で作り続けられている「江戸木目込人形」「岩槻人形」は、現在では、経済産業大臣から伝統的工芸品に指定され、生産量、生産額共に日本一の人形のまちとなっています。
岩槻で作り続けられている「江戸木目込人形」「岩槻人形」は、現在では、経済産業大臣から伝統的工芸品に指定され、生産量、生産額共に日本一の人形のまちとなっています。